『わたしを離さないで』について

わたしを離さないで 一度「でこぽんの読書日記」にろくでもない感想をアップしたのですが、下書きもキャッシュも残ってないため自分の感想文がどんなものだったのか覚えてなくてなんとも言いようがない。だけどネットで『わたしを離さないで』を絶賛している書評なり、泣いて感激したーとか、文章が流麗だったーとか、そういう感想を目にすると途端にガックリきて萎えてしまうところをみると、ましてやタイトルを見ただけで心がざわざわしてくることを思えば、間違いなく「面白くなかった」という感想だったのだろうと思う。
 で、なんで今更、気分よく読んでいる皆様の気持ちに水をさすようなことを言うのかといえば、本日の佐藤亜紀氏の『「わたしを離さないで」再び』を読んで、私が今まで言いたくて言えなかったことを見事に代弁してくれたからだ。誰も彼も判を押したように「素晴らしかった」「感動した」と言えるんだろうという疑問。どうして気持ちが悪いとは思わないんだろうという疑問。胸のもやもやが晴れて、思わず「ああそうなの、これこれ。これを言いたかったんだよー」と喝采をあげてしまった。あ、気分が悪くなった方がいたらごめんね。
 各々長く引用してしまいますが、ネタバレ部分を除き同感のところを引用しておきます。かなり端折って引用していますので、既読者は是非全文をお読みいただければと思います。

もちろん、イシグロがエモーショナルなものをこれ見よがしに垂れ流しにしたかといえば、それはしていないと言わなければなりません。むしろ『わたしを離さないで』は押さえ気味に語られてはいます。ただし、その抑制が垂れ流しにも増して読者のエモーショナルな反応を煽ることになっていることは見落としてはいけないでしょう。語り手が静かに語れば語るほど、読み手はその背後にある情動を推察して反応する訳で、これは多少洗練された書き手なら当然心得ている「泣かせ」の技術です。問題はその後にあります。つまり、イシグロがこの巧みな「泣かせ」から何を引き出したか、「泣かせ」を越えた作品を実現できたかどうか、です。

そうです。エモいんです。

その弱さとは、背景のシミュレーションの弱さです。

だと思います。

○○○○○○も○○○○も(ネタバレのため私が伏せました)、SF的ガジェットというにはあまりにもすぐそこまで来ている、『ニューズウィーク』あたりの先端科学特集に出て来かねない技術であり、この小説の背景にあるのはむしろマイケル・クライトンあたりが書きそうな世界です。ただし、ろくすっぽ小説になっていない小説仕立ての情報提供を書くクライトンではありますが、この小説と同じ話を書くならどれくらい細かい政治的・社会的・文化的シミュレーションを行うか、は容易に想像が付くでしょう。上下二巻必須、というところです。それだけのダイナミズムを伴う変化が、本来は、この小説の背後にあるはずです。

おお、確かにマイケル・クライトンが書きそうな世界ですね。ろくすっぽ小説にならないかもしれないですが、私はクライトンのほうを読みたいです。

もちろん、それを端から書いたのではまるで小説にならず、つまりはクライトンにしかならない訳ですが、よしんば一切書かないとしても、書き手の頭の中では同等のシミュレーションは済んでいなければなりません。語り手の生活圏がどれほど狭く、外界に対する興味がほとんどないとしても、社会全体のあり方は否応なしにその生活の隅々に、本人も気が付かない間に浸透しているものであり(この状況では特に)、何より、小説の記述はそうした場所から汲み上げられてくるものだからです。『日の名残り』は歴史上実在した社会を背景にすることによって、そうした薄さを免れていた訳ですが、そこからどれだけの記述が汲み上げられてきていたかを考える時、この小説における背景のシミュレーションの薄さは小説として致命的だということになるでしょう。シミュレーションの薄さは、そのまま記述の薄さに繋がってくるものです。

なるほど、淡々としていると思ったのは、シミュレーションの薄さだったのか。

(もっとも、この手の釣りを文学性と勘違いする読者は少なくありませんし、釣りをきちんとシミュレートして記述の中に丁寧に汲み上げた場合には、恐ろしい話ですが、読者の大半はそこに釣りがあったことさえ気が付かない傾向があります。故に、最も効果的に釣るには最も取って付けたようでなければならない、というのは、悲しい話ですが、事実です)
その結果、最も深刻に損なわれてしまったのは、悲しく美しいお話にするためには不可欠だった学校時代、ということになるでしょう。と言おうかそもそも、学校を舞台にした小説、特に生徒が語り手という小説は、余程のことでもない限り、書いてはならないものです。第一に、学校という場所は社会的な多様性と厚みをほぼ完全に欠いており、第二に、社会的な多様性と厚みを欠いた場所には社会的な多様性と厚みを欠いた人物しか登場せず、第三に、そうした場所と人物を使って造り出せる造形は否が応でも単調にならざるを得ず、第四に、それをろくな社会経験も言語使用の経験もない語りによって語るのでは、これはもう途中で投げるか寝るかしかない代物になってしまうことは最初から明らかだからです(ただし、こうした諸点を逆手にとって書くことは可能でしょう——これがつまりは「余程のことでもない限り」です)。

まさに同感。

通常の学校以上に社会的な厚みを欠いた特殊な寄宿舎学校の生活を美しい記憶として振り返る『わたしを離さないで』が、文章からしてひどく退屈になってしまうのは、と言う訳で、致し方のないところです。執事語の屈折が幾らかの刺激になった『日の名残り』とは異なり、学校生活とその後の看護人の生活しか知らず、格別の文学志向もない語り手が自分の経験を語るのでは退屈にしかなりようがありません(イシグロの文体にもっと積極的な魅力があれば多少は違っていたのでしょうが)。背景が、現実世界並みとは言わないまでも、きちんと水準以上に作り込まれ、そこから様々な細部が引き出されていれば、それでもまだ良かったのでしょうが、上でも述べた通り、この小説ではそうはなっていません。時折学校の本来の機能に関る出来事が割り込んでくる以外は、例によって例のごとく退屈で凡庸な学園物の紋切り型を繰り返して行くに過ぎません。

ああ、それで文章が退屈だったのですね。

もうひとつ、歯を食いしばって最後まで頑張ったけど本当は投げ出したかった理由があります。あの出口なしの宿命に対する従順さという奴がどうにも気色悪い。何といおうか、べしゃべしゃぐにゃぐにゃしたものを手探りでいきなり掴んでしまったように気色悪い。そしてこの気色の悪さというのが、新海誠の『ほしのこえ』を見た時に感じたのと同じ気色悪さなのです。

そうです。まさに「気色悪い」です。


 ということで、以下はつぶやきです。
 私はどちらかと言うと、泣ける小説が好きです。しかも号泣なんてするとそれだけで「傑作だー!」と訳もなく絶賛してしまう傾向がある。なのに、なんで誰もが絶賛しているこの小説で泣けなかったかというと、それはこの小説の設定や語り口が、一言で言うと「気色が悪い」からだ。
 学校の寮という閉鎖的な空間で、子供が自虐的ともいえる言動をし、それを静観するしかない周りの教師たち。抑制が利きすぎてるのか、何を語っているのかちっともわからない文章。じわじわと締めつけるだけ締めつけて、ストレスだけを与えるつまらなさ。とくに主人公たちの境遇は早い段階で予想がつくのにそれをはっきり書かない驕り。表紙のカセットテープが象徴するように、作者だけはずっと前から知っているんだけど、教えてやらないぞ、とも言えるような傲慢さ。え?違う?んまあ、カセットテープはそういうんじゃないっていうのは判るんだけど。でもそんなふうにしか思えないんだから仕方がないでしょう。
 で、SFというのであれば、もっと「奇妙さ」を際立たせればいいし、社会的な背景を描くべきだ。逆に、SFとして描いたつもりがないのならば、特殊な状況下にいる子供たちの心理描写をもっと描いていくべきだ。(まあ、私はいい大人なので社会性のない子供の語りではつまらなくて読めないが)なのに、その辺りの口調が淡々とし過ぎていて物足りない。
 要するに、この小説の一番の面白さは設定の奇抜さにあると思う。まあ今から思えばそこにしかないように思うのですが、たとえば私のようにどこかのネタばれレビューをうっかり読んだためにその衝撃を味わえずに、気色の悪さだけが残ってしまった読者もいるというわけです。
 ということで、未読者は予備知識ナシで読むことをお勧めします。最初の退屈さをクリアすればそこそこ感動するんじゃないかしら。だからこんなエントリーは読んじゃダメですよ。え?もう読んじゃった?あ、ごめんね。