草にすわる/白石一文

草にすわる (光文社文庫)
草にすわる (光文社文庫)
白石一文

光文社 2006-06-13

asin:4334740715

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★★★★★
 ときどき、人はいかに生きていくべきか、ということをふと考えてみることがある。それは優れた小説を読んだときに、しばしば胸によぎるものではないだろうか。
 白石一文の小説を読んでいると、いやでもそれが起こる。もともと白石は「生きる」ということを一貫してテーマに掲げているのでそれは当たり前のことなのだが、とくに今回本書に収められた三篇には心を揺さぶられてしまった。


「草にすわる」
 日々何気なく生きているわたしに、生きるとはどういうことなのかを甘やかに優しく教えてくれた小説だった。といっても、この小説が甘い言葉で綴られているわけではない。病気で職を失い毎日だらだらと無為に過ごしている三十歳になろうかという男の話である。気が滅入りそうな話であっても、明るい話のはずがない。ところが、この鬱々とした語りに引き込まれていくのである。
 五年間は仕事をしないと決めた主人公の洪治。だが、三年半も怠惰な生活を続けていけば、さすがに将来のことが不安になるのは仕方がない。貴重な時間は欠落していき、毎日は曖昧となり、閉塞感だけが増してゆくのである。となれば、生きている意味もなくなってしまう。肌を合わすだけの都合の良い女性と成り行きのように自殺未遂を起こしてしまうのも必然のようにも思える。
 ところが、ここから白石の本領が発揮されるのだ。出色の出来栄えとなっている。微かな風が吹いて、さやさやと福寿草が揺れている草地の場面。洪治が座り込んでいると、突然激しい感情が胸に沸き起こって、俺は、どうしてあんな馬鹿なことをしてしまったんだろう、と覚醒するのだった。
 生きていれば誰だって、もう嫌だと思うはよくあることだし、心底嫌になることの一つや二つくらい軽く思い浮かべることができるだろう。第一、自分の思うとおりの人生を送れる人なんて、どこを探せばいるんだろう。死ぬ理由がなければ、いや死ぬしかないような切羽詰った理由があったとしても、人は生きていくしかないのである。洪治が言っていることはそういうことなのである。そしてそこに共感するのだった。
 平和な日本にあって、どこの世界よりも恵まれた立場にある者が、そんなことを考えること自体、傲慢なことでしかない。だがしかし、人間というものは贅沢にできているものなので、こんなことを考えている自分自身がなんだか不憫で可哀そうになってくるのだからしょうがない。そして、もっともっと幸せになりたいと思うのだからしょうがない。というようなことを、つらつらと考えることができるということはなんて幸せなことなんだろう、と胸の中が暖かくなる幸福な読書であった。

 
 他二編を簡単に。大変面白かったです。

砂の城
 主人公は63歳になる文学界の大御所。ここ数年は世界的文学賞の候補にもなっているという男である。過去の華々しい栄光があっても、年老いて一人になった彼がふと考えることは、生きるとはどういうことなのか。それは、生まれてきた誰もが考えることであろう。と、こんな寂寥感を覚えたとき、まだ幼児である孫と出会うのである。抱いてみると、遠い記憶が甦ってきて暖かい気持ちになる彼だった。
 やはりこれも覚醒の物語である。
 文学界では成功しても、私生活ではそれほど恵まれた人生ではなかった彼。容姿に自信がなかったということに端を発しているようだが、ただ単に女性に恵まれなかったというだけではなくて、やはり人との間合いの取り方がうまく出来なかったというのが一番の不幸なのではないだろうか。
 過去を振り返り己の文学を通して考えることは多々あるが、結局のところ一番大事なことはとてもシンプルなことであり、それは「生きることそのものの真の祝福」ということなのだろう。


「花束」
 中央経済新聞のスター記者であり、金融業界で知らぬ者がない辣腕家である本郷幸太郎、35歳。その彼から引き抜かれて相棒となり、経済紙としては世紀のスクープを狙う主人公の「ぼく」、30歳。大蔵のシナリオで描かれた大蔵の管理銀行との合併は許さねえ、とばかりに叩き潰すつもりでネタを掴んでいく。とまあ、こういう経済の裏話は社会問題として興味深く読んだのだが、やはりこの話の面白さは人生に対する二人の考え方に尽きる。
 花形職業であれ、またそのスター記者として人も羨む人生を送っているような者でも、実際のところ本当に幸せかどうかはうかがい知れるところではないのだ。また他人がどうこう言うものでもないのだ。
 愛人とか不倫とか、いつもそういうややこしい関係を出してきて人生を面倒なものにしている白石であるが、「もしも自分なら」と考える機会を与えてくれる小説は、やはり面白い。